肉体の死を迎えた時、何が起きるか? 安らかな死を迎えるため必要なこと(3)
連載3回目です。
スピリチュアリズムの父、アラン・カルデックの名著から、「肉体が死を迎える際に起きること」、「安らかな死と霊界への移行をするため、今から心がけておくべきこと」についてお送りしています。
こちらの本からお借りしています。
(残念ながら絶版になった模様です)
天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」
(※ この本の出版元は著名な宗教団体の系列会社です。価値ある素晴らしい内容なのにこの点は残念でなりません)
(第四回)安らかな死を迎えるため今からすべきこと
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第一章 (死によって)魂と肉体が分離するとき
(自死を含め) 非業の死を遂げたらどうなる?
非業の死の場合、条件は同じではない。
肉体と幽体との分離の準備が、あらかじめ全くなされていないからである。
有機的生命が力に溢れた状態で、突然中断されるわけである。
したがって、幽体の分離は、肉体が死んだ後で開始されるのだが、それには多大な困難が伴う。
霊はあまりにも不意な出来事に圧倒され、茫然自失の状態である。
だが、考えることはできるので、「自分はまだ生きているのだ」と思い込む。この錯覚は、状況を正しく把握するまで、ずっと続く。
肉体生活と霊的生活の、この中間状態は、大変興味深いものであり、詳しい研究に値する。
というのも、こういったケースでは、霊は自分がまとっている幽体を肉体であると錯覚しており、肉体を持っていた時の感覚をまだ失っていないからである。
(※ 「成仏」できていない、地縛霊、幽霊 の状態です)
霊の性格、知識、悟りの程度に応じて、この中間状態は実に多くの様相を呈する。
魂がすでに浄化されている人の場合、あらかじめ幽体と肉体の分離は進んでいるので、突然の死に見舞われたとはいえ、それは分離を早める結果にしかならない。
また、浄化が十分でない魂の場合、分離するのに数年間もかかることがある。
もっとも、通常の死の場合においても以上のことはよく見られることであり、浄化の進んでいる魂にとっては、死は何の苦痛ももたらさない。
が、浄化が十分に進んでいない魂の場合、死がとてつもない苦しみをもたらすことがある。
特に自殺による死の場合、苦しみは大変なものとなる。
それは肉体がまだ完全に幽体と結びついているので、肉体の感覚がそのまま魂に伝わり、激烈な苦痛を味わうことになるのである。
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以上、死の瞬間の霊の状態は、だいたい次のようにまとめることができる。
- 幽体と肉体の分離が遅れれば遅れるほど、霊はより長く苦しむこととなる。
- そして、分離が早いか遅いかは、霊の悟りの進み具合に左右される。
- 脱物質化の進んでいる霊の場合、意識が浄化されているので、死というのは短い眠りのようなものに過ぎず、全く苦しみを伴わない。
その短い眠りから覚めると、心地よさに満たされている。
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今回はここまです。
ところで、上の内容に少し補足をしておきたいと思います。
結局のところ、病死と自然死が、もっとも安らかな臨終の迎えかた、になるようです(スピリチュアリズムの観点からは、ですよ)
それは時間をかけて、少しずつ少しずつ、そーっとやさしく。
霊体が肉体から抜けてゆけるからです。
では、事故やアクシデントの場合はどうか。
これは近藤千雄先生のご体験から、私の個人的な推測なのですが。
生まれる前、つまり最初から「死期=寿命」が決まっていた人の場合に限っては、
- その数時間前から、霊体の分離が始まっている(本人がなんだかぼんやりしていたり、周囲からみて存在感や印象も薄まる)
- 早逝されるかたはそもそもかなり霊格が高い。 ただいまだ地上でしておかなければならないことがあって、そのために生まれ変わった。なので用事が済めば霊界に戻る。 霊界は地上とは比べ物にならないほど「天国」ですし、さらに上の次元を目指すべくのんびりとしていられないので、地上に居続ける必要がない。
と思います。
ですので、さほど心配する必要はないかと。
ただもし地上の何かに執着されてたら、肉体から(地上生活から)離れたがらないはず。
そうすると、霊体のまま、肉体が朽ちていく苦痛を、どうすることもできないまま感じなければならず、その際苦痛が起こるかと思います。
それから、殺人に巻き込まれた場合。
無差別殺人やテロのように、見知らぬ人から命を奪われた場合も「寿命=自然死」の可能性があると思われます。
けれど、えん恨のもつれから命を奪われた、といったケースは別な気がします。
たとえば、自分のひどい言動で相手を傷つけたり怒らせたせいで、恨みを買ったことが発端だったり。
その場合は限りなく自死のケースに近いかも、です。
なぜなら、相手の嫉妬や妬み、怒りや憎悪を煽って、自分の命を奪うようそそのかしたのはその人だから、です。
そもそも、他人の心の中に憎しみや怒りの種を撒いてはその芽が出るように誘うのは悪魔のすること。
悪行です。
とても大きなカルマです。
どれほど霊的に進化した人であっても、始まりは「野生」から。
凶暴な時代の記憶が、魂の中に、いまだ残っているんです。
それを、輪廻を何度も繰り返しながら、ようやく克服してゆきます。
そうしてせっかく愛と真理の芽が芽生えてきたところに、ある日突然 "悪魔" が現れ、野生の記憶を呼び覚まそうとします。
後退もしくは転落させようとするんですね。
ただそれも、考えようではどれほど霊的に成長できたかを「試されている」、テストをうけている、ともいえる気がします。
まるで、イエスが受けた試練、「荒野の誘惑」のエピソードのよう。
イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、霊によって荒野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔の誘惑を受けた。
(ウィキペディアからお借りしました)
ja.wikipedia.org
続いて自死のケース。
自死は、地上時代のエゴに負け、自分が生まれる前に決めてきたルールに反する、"不自然な"終わりかた。
その場合、上でカルデックが説明してくれているように、霊体として肉体から離れる際、まるで体から無理やり手足を引きちぎられるような激痛や苦痛が伴うのだそうです。
それだけ、神や他のみんなから与えてもらった成長のチャンス、命を、粗末にすることの "罪は重い"、ということですね。
そういえば、自分の後を追うように自殺している人たちを見て、「やめてくれーー!!」と頭を抱えながら絶叫していた霊のチャネリング記録を見たことがあります。
なぜそうなるかというと、自死した人たちの激しい身体的苦痛や残された人たちの苦悩が、きっかけを作ってしまった自分にも襲ってくるからです。(だから、彼の後を追って命を絶つのは絶対にダメですよ。それが、自分だけじゃなく彼も苦しめるからね)
ただ、自死の場合も、例外はあるそうです。
その場合は、守護霊やガイド霊などの、善霊たちが助けてくれます。
が、これもめったにないケース。
いずれにしましてもその人次第。
いろんなケースがあります。
これだけは「死んでみなければわかりません」。
ただ、どうすれば、可能な限り安らかな旅立ち(分離)にすることができるか。
その方法や答えだけはすでにわかっています。
それらについては、引き続き第四回まで、お読みいただければと思います。
(とても長かったので、読みやすいようにするため、4分割してあります)
次回は最終回です。