肉体の死を迎えた時、何が起きるか? 安らかな死を迎えるため必要なこと(1)
今日から4回にわたって
- 肉体が死を迎える際に起きること
- 「安らかな死」、つまり霊界/霊体へのスムーズな移行をするために、今から準備しておくべきこと
についてご紹介してゆきたいと思います。
スピリチュアリズムの父であるアラン・カルデックの名著からお借りします
(残念ながら絶版になった模様です)
天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」
(※ この本の出版元は著名な宗教団体の系列会社です。価値ある素晴らしい内容なのにこの点は残念でなりません)
よろしければ過去記事もどうぞ。
********
第一章 (死によって)魂と肉体が分離するとき
肉体をつなぐ電子線(※ 別名 シルバーコード、魂の緒)こそが、秘密を解く鍵なのである。
まず、物質それ自体は、感じ取る能力を持っていない。
これは実証可能な事実である。
(写真は 人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅―人が悲しみ・病気・不幸から学ぶものは? からお借りしました)
喜びや苦しみを感じ取ることができるのは、魂だけなのである。
一生の間、肉体の状態は常に魂へと伝えられているのであって、喜んだり苦しんだりするのは、肉体ではなくて魂なのである。
肉体は道具に過ぎず、そこからの情報を受け取るのが魂である。
死が訪れると、肉体と魂は切り離される。
が、肉体には感じ取る力がないので、問題はまったく生じない。
分離した魂は、肉体の崩壊からは何の影響も受けない。
そして、物質とは別の源泉から刺激を受け取るようになるのである。
幽体は魂を包み込んでおり、幽体と魂は一体となっている。
一方なしに他方は考えられない。
(※ 訂正です。公開当初ここに、「生きた」人間の霊体の構造のイラストを載せました。それだと逆に見えてしまい、混乱や誤解を招いたと思います。 完全な死が近づくと、幽体が魂を包み込み、次に肉体から抜けていくそうなんですね。 ですので人間として生きている時の状態とは逆になります。がそもそも言語化したり図式化するのは難しい部分でもあると思います。紛らわしくてすみませんでした)
生きて地上にいる間、幽体は、肉体の隅々にまで浸透しており、魂が肉体の反応を感じ取るために役立っている。
同様に、魂が肉体に働きかけて動かすことができるのも、幽体のおかげである。
肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた電子線が切れる。
だが、この分離はただちに起こるわけではない。
幽体が徐々に肉体から分離してゆき、肉体の細胞の中に幽体の構成要素が全く存在しなくなるまでは、分離は完成されないのである。
死の瞬間に魂が感じる苦痛は、肉体と幽体がまだつながっているがゆえに感じられるのである。
また、分離に要する時間とその困難さに応じて、苦痛の程度が決まる。
したがって、場合によっては、死ぬことにある程度の苦しみが伴うことは、認めておかなければならない。
ここではまず四種類の、極端な場合を想定しておこう。
それ以外のケースはすべてそれら四種類の変奏として捉えられるはずだ。
- 有機的生命が消滅する瞬間に、幽体の分離が完全に行われれば、魂は全く苦しみを感じない
- その瞬間に、幽体と肉体がまだ完全に結びついている場合は、それらを引き裂くことになるので、魂は苦痛を感じることになる
- 幽体と肉体の結びつきがそれほど強固でない場合は、分離は容易に行われ、苦痛はさほど感じられない
- 有機的生命が完全に消滅しても、なお、肉体と幽体が結びついている場合、電子線が切れるまで、肉体が解体する時の影響(体感)を魂も受けること受けることになる
以上のことから、死に伴う苦痛は、肉体と幽体を結びつけている力の強さに関係していることが分かる。
したがって、この力が弱く、分離が容易になればなるほど死の苦痛もまた少なくなる。
要するに、幽体と肉体の分離が速やかに行われれば行われるほど、魂は苦痛を感じずに旅立つことが可能となる のである。
この世からあの世への旅立ちのプロセスで、もう一つ、忘れてはならない要素がある。
それは ”意識の混濁" である。
死の瞬間、魂は麻痺した状態となってその能力が一時的に停止されるため、部分的に「感じる力」が働かなくなる。
つまり、魂が一種の失神状態に陥るため、ほとんどの場合、息を引き取る瞬間のことが意識されないのである。
『ほとんどの場合』と言ったのは、中にはその瞬間のことをはっきりと覚えているケースもあるからである。
意識の混濁が死ぬ瞬間に起こるのは自然なことである。
また、どれくらいの間混濁するか?は、人によって異なる。
数時間で済む場合もあれば、数年間に及ぶ場合もある。
混濁が解消すると、魂は、ちょうど深い眠りから覚めた時の人間のような感じとなる。
考えがまとまらず、ぼんやりとしており、周りに霧がかかってるような感じである。
視覚も徐々に元に戻り、記憶もはっきりしてきて、意識が戻ってくる。
だがこの目覚めも、人によってそれぞれ違ったものとなる。
ある場合には目覚めは穏やかであり、気分は良い。
また、ある場合では、目覚めが恐怖と不安に満ちており、悪夢からの目覚めにも匹敵する。
従って、息を引き取る瞬間はそれほど苦しいものではない。 というのも大体の場合、魂は意識を失っているからである。
だが、息を引き取るまで、魂は肉体の苦痛を感じ取っている。 そして完全に息を引き取ると、今度は意識の混濁を原因とする苦しみを感じはじめる。
しかし、全てのケースがそうなるというわけではない。
苦しみが続く時間と苦しみの大きさは、肉体と幽体の結びつきいかんによって決まるからである。
結びつきが強ければ強いほど、その絆を断ち切るための時間は長くなり、苦痛も大きくなるのだ。
だが、中には、結びつきが非常に弱いために、分離のプロセスがごく自然に何の苦痛もなく行われることがある。 それは完熟した果物が自然に落ちるようなものであり、その場合死は極めて穏やかであり、霊界への目覚めもまた安らぎに満ちたものとなる。
主として、その時の魂の状態によって、分離が容易に行われるかどうかが決まる。
肉体と幽体の親和力が高いと、霊の、肉体への結びつきも強くなる。
関心が地上生活の物質的な快楽に集中している人の場合、幽体と肉体の結びつきの強さは最大になる。
一方で、主たる関心が霊性にあり、地上にありながら、すでに生活が非常に霊的になっている人の場合、幽体と肉体の結びつきは、ほとんどゼロに等しい。
分離の速度と難易度は、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右される。
そのため、分離が容易であるか辛いものになるか?、快適か苦しいか?は、各人の心境次第ということになるだろう。
****
つづく
(第四回)安らかな死を迎えるため今からすべきこと