Spiritual Lesson

スピリチュアリズムの学び

孤独死ナンテコワクナイヨー(と、美輪さん風に 笑)

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こんにちは。
こちらではお久しぶりです。

 

さて、先ほどとあるネットのコラムで「孤独死を恐れる風潮がある」 みたいな内容を見かけました。
そこで私は

  「スピリチュアリズムの知識があれば、怖がる必要なんてないのに??」

それと

  「人を脅かし、怖がらせ、力強く前向きに生きようとする力を奪うような情報発信はいかがなものか?」

 

と感じたので、この場で、自分の考えや意見を書いてみたいと思います。

 

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まずは現実的なお話から。

そもそも人はみな、一人死んでゆくもの ですよね?

そして、個々人の死の体験を共有することはないので、手を取り合って死んでも、同じ「死」の体験をすることは、絶対にありえません。
さらにいうと、誰もがいつか、肉体の死を迎えます。

 

それから。
誰もが、自分(の魂)が、いつどこでどんなふうに肉体を離れるかはわかりません。
これも、どこのどなたも反証および反論できない、つまり真実(真理)ですよね?

 

どれほど愛し愛される人たちに囲まれ、孤独とは無縁で、幸せに生きている人でも、こうした体験(親しい人に看取られずに一人で旅立つ。孤独死)をする可能性は十分にあります。
それこそ、外出先で発作を起こし、絶命することだってあります。

 

こうした最期(死んでゆき方)については、霊界でもわからないようです。

ただ事件事故に巻き込まれて危険な可能性が高い場合、その人についてる近い関係の霊たちが懸命に本人を止めようとはするらしいです。
けれど、そこでも本人の意志が最優先され、その結果どうなるかは、さすがの高級霊たちであってもまったくわかりません。

 

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百歩譲って、「カルマの解消」という観点からではどうでしょう?

とはいえ、例えば誰かを苦しめて命を奪ったから、自分の(今生での)命も差し出さないといけない(命で償う)ということは、「愛」(そして理性)が法や秩序の根幹になっている霊界ではありえないと思います。

というのも、本当の意味でカルマを解消したければ、苦痛を与えるよりは、善に気づく=改心することが欠かせないから、です。
なので、復讐や仇討ちでは、カルマの解消はできないんですね。

ですからそもそも、地上に生まれてくる前の、霊界で行う「今生での課題、計画」には、そのように本人の中にある怒りや憎しみ、恐怖をあおるようなものが含まれることは考えにくいです。
それでも怒るか!?、恐れるか!?みたいなお試しはあっても。

ですので、そうした「目には目を」のやり方ではなく、今生で生活する中で自分の中に眠っている愛や理性へと目覚め、その結果霊的レベルでは過去世で自分が犯した過ちや誤解は「正しくない。まちがっていた」ということを悟る、気づく。
そして、もう二度と同じ過ちは繰り返さない=霊的向上の道を自ら踏み外さない、と誓う。

こうした順で経験していくのが、本来の、正しいカルマの解消のしかた、と私は考えています。

 

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ですので、もしも事件事故に巻き込まれて突然絶命されたとしても、それは「カルマのせい=生まれてくる前から決まっていたこと」ではありません。

けれど、そうなる可能性をじぶんから高めることはできるとも思います。
それは、自分の中にある欲望や邪心、浅はかさ、愚かさの度合いによって。

明らかに「あの人とかかわるとヤバイ」という人と関わってしまう。
人をだます、悪いとわかりながら傷つける、等々。
けれど、そうすることで、自分が良い思いをすることができるか、ですとか。
もしくは、みずから社会や人とのかかわりを断ち切っている人の場合も、突然死や孤独死の可能性は高まります(スピリチュアリズムに関係なく、一般的考えてもそうですよね)。

 

誘惑や弱さ(我)に負けてそういう環境に居続けるか、それとも離れて、まっとうな道?を歩もうとするか。
こうした生き方も、宿命(定命)ではなくて、自分で選べます。

であれば、最後は、一人で死んでゆく、確率はかなり高まると思います。

 

他に、そうではなく、惜しまれて、突然事件事故で命を失われた方々も少なくなくありません。
ですが、それについて、「なぜ?どうして?」という理由は、おそらく永遠に見つからないでしょう。
と申しますのも、このようなケースについては高級霊でさえも、どういう因果法則が働いたのかは、予測不能なのだそうです。
単に偶発的な結果な場合もあるようです。
であれば、なおさら、私たち人間になど、わかるはずがありません。
ということは、このような最期を迎えられた理由や原因探しにしがみついて、自分や誰かのせいにし、悩んだり苦しみながら暮らしていくのは違う、といえます。

また、そうした突発的な最期の場合は、ほとんどのケースで、一瞬の出来事・体験、になるかと思います。
であればとてもじゃないけれど、その瞬間、自分は孤独死しそうだ云々といったことまで心配したり、気は回らないでしょう。
むしろ、生き延びることにだけ全力投球されているでしょう。

 

ところで病死や老衰の場合ですが、私が本で見かけたいくつもの交信記録によれば、脳こうそくや心不全など、循環器系の病気で突然亡くなる以外は、最短でも数時間~数日間、寝たきりになり、意識が混とんとしてから(意識不明な状態で)旅立つ、はずです。

その間に何が起きているかというと、魂の自分(アストラル体)が、肉体から離れていってます。
そしてその離脱が進めば進むほど、苦痛は無くなります。
なぜなら、苦痛はそもそも、肉体(の感覚器)を通して感じているものだからです。
霊体自体には痛みも苦痛もありません。

なので、霊界通信(交霊の時に)で、自分の(肉体の)死の様子を、「寝ていた」と答える霊は少なくありません。

そしてこの点でも、そうであれば、自分の周りに人間がいるとかいない(なので寂しい、辛い)とかまで、気にしたり気が回らないはずです

 

ただ、霊体と肉体の分離が進むにつれて、今度は、霊たちが見えるようになってきます。
自分自身が、霊人(霊界の人)になりつつあるので。
霊体が霊界での本体ですので、なので自分と同じ霊人たちが見えたり会話できるようになるんですね。

すると迎えに来ている霊(注 必ずしも近親者だと限りません。でも温かさや優しさにあふれてるはずです)、ガイド霊、守護霊など)が、見え始め、会話もできるようになります。

その様子は、出産のとき、妊婦さんに向かって「がんばってー」と、出産に立ち会っている人たちから励まされている様子とイメージが重なります。
(ただ霊たちはもっと物静かだし、光が差すなど、もっと荘厳な様子らしいのですが)

とにかく、霊たちに囲まれ、温かく見守られながら、愛と平和と美と安らぎに満ちた中で、肉体から離れて行くんです。

そして最後に、霊体と肉体をつなぐシルバーコード(魂の緒)が切れて、完全な霊体になり、この世でいう「ご臨終」となります。
 

 

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ということで。

霊(界)実在の観点からすると、純粋な意味で、「たった一人で寂しく死ぬ」ということは、絶ーーー対に!!!ありえません。

しかも病死の場合、最期はもう(肉体の)意識が無くなるので、周りに誰がどれほどいてくれようと本人はそのことが察知できませんので、看取られようがそうではなかろうが関係なく、なのでそのことを今から不安がるのはどれほど愚かで無駄なことか。

 

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またさらに、孤独死を心配する別の理由として考えられるのは、腐乱状態がどうのこうのという心配があるかと思います。

けれど。
自宅で孤独死するかどうかに関係なく、場所に関係なく。
魂が離れた肉体は腐乱するもの。

 

それと、霊となった時点で、「一度は捨てたボロボロの古着を惜しむ」霊など、一人もいないはずです。
その時の自分はすでに、健康で若々しくてはつらつとした体を手に入れているでしょうし。



また、肉体が腐乱状態になるのが心配でしたら、そうならないように今から準備しておいたらいいと思います。

つまり、普段から人づきあいを密にしておけば、周りがすぐに異変に気付いてくれ、なので腐乱させるところまではいかないはず。
その証拠に、腐乱状態で発見された人の多くは、生前から、人づきあいが悪そうな気がしませんか?
他には、気難しくて付き合い難いだとか、嫌われていたり。

 

シビアなことを言えば、このような孤独死(腐乱)は、生前からの本人の心のもちよう、みずからの意思で選択した生き方の結果、ということになってしまいます。
なので、私は、こうした死にはあまり同情ができません。
ちゃんと考えれば事前に予想ができたものであり、なのにわかっていながらそれでも努力して改善しようとはされなかった、ということの現れなので。。。

自分をもつ、貫く、個性があることは悪いことではないし、時には必要だったりします。
けれど、同時に、自分から人に合わせていくこと・歩み寄ることも大事と思います。

その人や意見が正しいかどうかということと、人とうまくお付き合いすることは、本来は別物。
ですので、自分と合わない価値観とかを嫌って避けるばかりより、じぶんから歩み寄って理解しようとか相違を超えて行くのほうが、霊性も高いはずですし。

 

ところで自分の死後、その体や生活品を処理してくれる人に、なるべく迷惑をかけないような暮らしをすること(終活)も大事と思います。
死んでからも、嫌味や文句を言われるのは、生きている間に自分の目の前で直接言われるよりも、もっと恥ずかしいですし、後悔するようなことになりますし(具体的は、そうした様子を霊界で他の大勢の霊たちと一緒に見ることになるから です)

でもそれよりなにより、そういう陰ながらの人へのやさしさや愛情を、ちゃんと行動で示せる人になりたいものです。

 

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ということで、孤独死なんて全然怖くないよー。

それに、そういうことを本気で心配して思い悩んで、忘れていたとしても常にこころが重く、気が滅入るような日々を過ごしていくことのほうが、よほど問題ではないでしょうか?
それでは前向きに生きようとか、人にやさしくすることもできなくなるでしょう。

人として、社会と交わりながら、人と上手く共存しながら。
精神的に誇れる最期を迎えるためにも、元気なうちから自分にも人にも誠実でまっすぐに。
地に足を着けて自立して生きてさえいれば(有名になるとかお金持ちになるとかに関係なく)、そもそも孤独死の心配なんて必要ない!!、孤独死ナンテコワクナイヨ~~~と思う私です(笑。

そういうことより、もっと自分を幸せにしてあげるための工夫や活動に時間(寿命)やエネルギーを注いだ方いいし、そうした毎日の積み重ねが、とどのつまり「幸せな死」を招くはずです。

後悔のないように、自分自身に恥ずかしくないように。

お互い、クリーンで心地よい日々を送りたいものですね。